メディア

世界遊戯法大全

世界遊戯法大全
この本を知ったのは「タモリ倶楽部」だった。
毎年やっている「メディア論」でゲームを「リ・デザインする」という回を設けている。
4人程度で遊べる開始から終了まで15分程度のゲームを
初対面の人の懇親を深めることを目的に1つだけルール変更をして「価値を高める」
ということを実験している。
2013年からこの本をベースに実験内容を改善してみたいと思っている。
ちなみに、amazonでは2万円クラスの値がついているが、日本の古本屋では1万円クラス。
私は3300円で入手した。

不明

珍しい1週間だった

同期と2回も呑みに行った。
昔の職場にイヴェントの提案に行った。

一つ忘れていたことがあって
「メディアとは何か」ということを考え続けているのが多分、私の人生なんだと思う。
メディアとは何か・・・
「ことば」
とか
「のろし」
とか
「活版印刷技術」
とか色々あるんだろうけど、つまりそれ(メディア)とは何なのか。
話はとんで(メディアの考えは最後にまとめておく)、最近、やろうと心に決めておきながら難しいことが一つある。
それは、「東北の文化」を集めて・広めるということをやろうと思い立ったことの具体的実践方法だった。
日経新聞3月木曜日夕刊に連載された赤坂憲雄先生の「
東北学への誘い」これをやろうとして、旅を思い立って、いざ行こうとすると、「金木(太宰)」「遠野(柳田)」「花巻(宮澤)」というところくらいしか思いつかない。大自然に感動して帰ってくるのも勿論いいのだけど、いや、そんなものではなくて、東北の文化というものがもっと視覚的に表現できる何かがあるのではないのか?・・・まだ見つからないことに気がついた。
これは仏教的「テキスト」化された文化と神道的「オーラル」な文化の違いなのかもしれないし、単に「知らないだけ」ということもあるかもしれない。一歩一歩踏み出して、歩みをとめてじっくり観察することから始まるのかもしれない。東北はそういう意味でとてつもなく大きい。
関西というものに興味が沸くと、仏教に興味が沸く(というか、日本の文化は仏教との関係から教わることが多く、神道に関わる教育は戦後はなされていないのではないのか?このことは、東北の理解を阻んでいる原因なのかもしれない)。仏教の歴史は、下記のステージに分けて考えることができる。
(1)仏教伝来
(2)奈良仏教
(3)日本の仏教の始まり(天台宗と真言宗)
(4)鎌倉仏教(生活に入り込んだ仏教)
(5)廃仏毀釈
(6)太平洋戦争と仏教
で、話は元に戻って、メディアとは何なのか?
「門外不出」の真言宗の密教の伝法はメディアとしてどのような意義があるのだろうか。
「日本仏教を総合化した天台宗」はその後日本に浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗なる新仏教を輩出した。この中の禅宗には興味深い「手法」があることに気がつく。仏教では「成仏」するための手段として「他力本願」と「自力本願」の2つがある。他力とは「仏」の力でという意味であって「他人任せ」みたいなものとはそもそも意味が違う。で、この自力本願をするために「禅」をする。これが禅宗の教えであるわけだ。
「専修念仏」ということばがまさにこれを体現したものであり、ひたすら座禅を組む。これが曹洞宗の厳しい教えである所以だろう。もっとも、曹洞宗もそれなりに広まっているのだから単に厳しいだけのものではない[惹かれる何か」があることは確かだ。一方の臨済宗には「公案」なる手法がある。つまり「禅問答」のことである。対話の中から自分が悟りをひらくためのあれやこれやが見えてくるということのようだ。曹洞宗では禅問答を否定していないようだが、あまりやらないようだ。そこで他の鎌倉仏教をみても、その成仏するための手法になんと多様な方法を編み出したことか。
まさに、現代のマルチメディアの原型はここにあったといってもいい。
さらにその日本仏教の歴史とは一線を画している「密教」なるものがどのようなことをやっていたのか、高野山に行って護摩行を見学してみると更に意外なこと、色々なことが分かってくる。あの大きな炎と重低音のお経、あの技法をもってすれば瞬時に帰依することは間違いない。土木技術に長けて、灌漑・井戸掘りあれだけのことをやった空海伝説にはそれは圧倒されたことは間違いない。真言密教なるものがなぜ密教であったかもなんとなく理解できてきた。
真言宗と修験道は随分似ているところがあって、神道とも共通するところが多々あるということは聞いたことがある。その、東北の文化が関西に比べて「見つけづらい」ことと関係があるのではないかと思うに至った。
神社の基本とは(本来は)「社」を持たない。経典がないに特徴があって、自然と先祖を崇拝することで現在の生き方に「秩序」と「規範」を持って生きることなのかというように考えるようになった。いわゆる(日本に伝わった)仏教と比較すると分かりやすいのだろうけど、経典というところで記述可能なものとは明らかにアプローチ・理解の方向が異なっているようだ。
東北の文化というものが乱暴に言ってしまうとその「神道的」な伝承がなされているような気がしてならない。
すると、東北の文化というものをどのように記録してどのように広めるのか。今までの「テキスト」による記述・伝承ではない何かによることになるはずである。まさに、マルチメディアのなせる技を駆使する必要があるのだろう。