ワンダーランド
休止とのこと、残念でならない。
http://www.wonderlands.jp/archives/26608/
ちゃんと支援しなければいけなかった。
後悔先に立たない。
何回か投稿させていただいた。
http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/owada-tatsuo/
データが消えると惜しいので、コピーしておく。
◎妄想を増大させ狂気の階段を昇る
大和田龍夫(大学講師)
マンションの一室で、まるで田舎の寄合所であるかのようなにぎやかな家庭で繰り広げられる「永年の友人」と「知り合ったばかりの友人」が夫婦に降り注ぐ些細な事件を大きな妄想により大事件に拡大させている、まさに、狂気の階段を昇っていく2時間の舞台であった。
倉持裕の1年2ヶ月ぶりの新作ということで、会場にもその期待で開演前から熱気であふれていた。私は「開放弦」「ワンマンショー」に続いての「倉持劇場」の鑑賞となったが、この3部作とでも位置づけたくなる相互の関係にも見終わったときに大きな満足感を持つこととなった。
高宮進(戸田昌宏)とわたる(坂井真紀)は結婚後それほど経っていない、そこそこ幸福な家庭であり、その家庭には進の友人・仙波(玉置孝匡)、わたるの友人塔子(ぼくもとさきこ)も訪ねてくる。
湘南新宿ライン1本で行ける鎌倉旅行が仕事の都合で行けなくなったことを知りすねるわたる。休業中の仕事を頼まれ出かけた先の年下のカメラマン江尻(近藤智行)に口説かれたことを4人の前で告白し、話は意外な方向へ。
江尻は非礼をわびに進の家まで来ることになり、それをそそのかしたのは、江尻の学生時代の伝説の先輩の朝比奈であった。後半ではこの4者に加えて、仙波の失踪中の妻も出てきて、登場人物全員の肥大化する妄想が劇場中に吹き出すこととなる。
(あらすじはhttp://www.penguinppp.com/next/12_yurameki/story.htmlを参照)
人と人の間にある誤解と妄想そして、その妄想の増大する様の面白さと怖さを描いた芝居である。冒頭にある「鎌倉の思いで」この思い出を思い出すために再び訪れたいという思いと、その鎌倉の思い出を共有すること、そして、鎌倉へ行くことを楽しみにしている妻と、その思い出に価値を見いだそうとしない夫の間の意識の差は、妄想によってどんどん拡大していく「嫉妬」以上に大きなものであるに違いない。
そして、人の行動の動機そのものには大きなエネルギーは不要であり、その嫉妬という栄養源によっていかようにも増幅し、思わぬ発作的行動に取り憑かれてしまうのであろう。本作品では「妄想」は幾重にも用意されていた。夫の進が妻わたるに抱く浮気への疑念とその疑念を増幅させる塔子のことば。そして進の抱く自分の過去の負い目。そして、仙波の妻、実須江への広がる妄想・・・。この妄想は、妻わたるが抱き始める妄想とも事実ともつかぬことと共に、最後に巨大な爆発をすることとなる。その爆発は「鎌倉」への価値観の相違が全てといっても過言ではなかろう。
◎ピンク地底人「明日を落としても」(クロスレビュー)
▽大和田龍夫(大学非常勤講師・メディア論)
★★★★
京都発の劇団、いや、劇団という括りでいいのかどうか自信がない。京都というとそとばこまち、ダムタイプ、ヨーロッパ企画などは東京でもそれなりに馴染みがあり、期待と評価が一致している集団なんだと思う。どれも東京に住む者からすると「勝手な京都観」を舞台と交錯させてみてしまい、劇団の「オリジナリティ」と「京都らしさ」の区別がつかなくなってしまうのは劇団に失礼だということは今回知った。
音響も団員自らの手で作り出し(団員の数だけのマイク・マイクスタンドが舞台の周囲に配置されている)、正方体(キューブ)と7本の柱、蛍光灯が舞台に配置され、シーンは団員の群衆としての動きによって表現するといういわゆる演劇の枠を越えた表現にびっくりした。登場シーン以外は、舞台袖からその演技を見守るという演出手法を時折みかけるが、観客にとって不思議なものであった。この舞台のこの演出には「必然」があってとても心地いい。細かな違和感、冗長感、分かりづらさは多少あったけれど、ピンク地底人オリジナルの舞台表現要素としてはほぼ「出そろった」のではないのだろうか?
勝手な思いを言うと、せっかくの女優さんをもっと魅力ある演出で輝かせて欲しいし、群衆としての役者さんに1シーンくらい光るシーンを用意してほしいなんていうのは見る側の勝手な思いではあるのだろう。年に1回は東京公演を続けて、より研ぎ澄まされていく舞台の行く末を見てみたいと強く感じた。
(8月17日 19:30の回)
【上演記録】
ピンク地底人 暴虐の第10回公演「明日を落としても」(佐藤佐吉演劇祭参加作品)
【大阪公演】インディペンデントシアター2nd(2012年6月30日-7月1日)
【東京公演】王子小劇場(2012年8月17日-19日)
*上演時間は約90分。
作・演出
ピンク地底人3号
キャスト
ピンク地底人2号
クリスティーナ竹子
ピンク地底人5号
ピンク地底人6号
大原渉平(劇団しようよ)
片桐慎和子
勝二繁(劇団テンケテンケテンケテンケ)
高山涼(第三劇場)
殿井歩
諸江翔大朗
脇田友
スタッフ
作・演出 ピンク地底人3号
舞台監督 若旦那家康(ropeman(33.5))
舞台美術 さかいまお(artcomplex)
照明 山本恭平
音響 森永キョロ
制作 5号 6号 martico(劇団ちゃうかちゃわん) 浅田麻衣
チラシとか 2号
宣伝写真 末山孝如(劇団酒呑童子/会華*開可)
料金
前売 2500円
当日 2800円
高校生以下前売り 500円
◎「死」をテーマにした連作コント集 持ち味出した水野美紀と河原雅彦
大和田建夫(大学講師)
テレビから舞台へその活躍の場を変えてきた水野美紀が脚本家と演劇ユニットを立ち上げたという不思議な舞台を見る機会に恵まれた。テレビタレントが様々なサイドビジネスをする例はあれども、テレビタレントがお金を儲けると副業としてレストラン経営などをする人が多いそうで、それをとあるタレントは、そんなノウハウも経験もないことに手を出すくらいなら、映画監督をやった方がまだ似たジャンルのことをやっているのだから、許されてもいいのではないか?というようなことを言っていたのを思い出した。
実際、テレビを主の活動場としていた役者が演劇の制作に乗り出すという例はあまりきいたことがない。よほどのことがあったのだろうと何か感じる予感があった。
テレビ女優から舞台へ、そして、舞台の制作へ・・・。面白い副業であると感じた(もっとも、制作の大半は楠野一郎が背負っているようではあり、実際舞台に立つわけだから副業というのは妥当ではなく、仕事の幅が広がった。もしくは手作りになったとか、そういうことなのであろう)。
ゲストに河原雅彦を迎え、数編のコントからなる水野と河原による二人芝居であった。コントの舞台というと私はシティボーイズライブなるものが毎年ゴールデンウィークにあるのを楽しみにしていて、そのシニカルな笑いを毎年楽しむという恒例行事がかれこれ15年ほど続いている。
この「プロペラ犬(水野美紀と楠野一郎による演劇ユニット名)」はコント全体に一本の主題「マイルドに死ぬ」と関係性を持たせようとしつつ、個々の作品の完成度を高めるという難しいことに挑戦しているようであった。
第一話の「はさみ女」の凍り付くような結末が舞台の最後に私たちを谷底に突き落とす罠があることを予感させながら、中盤には河原雅彦と水野美紀による軽快なかけひきが軽快な舞台へと私を引き込んでいった。
特に秀逸であったのは「湖の女神」である。井戸から出てきた役者志望の女性を役者に未練のあるサラリーマンがダメ出しをし、クリスマスにネタを見てやると時間を待ち合わせて1日待ちぼうけを食らう・・・。思いが伝わらないことを歯がゆく思うという様を河原の熱演と共に堪能できた。
そして、ゾンビが女優をやっているという奇怪な話がまた面白い。マネージャーがそのゾンビ女優(メロ)をオーディションに・・・というのが話しの流れだが、元有名女優がゾンビとなりそのゾンビであることを隠しながら舞台に上がろうとしている。オーディションの練習をやっていてもつい「ゾンビ」の仕草が出てしまい、うまくいかないながらも、マネージャーの言うことをだんだんきくようになってきたゾンビ女優。暗転後にはちょっとしたオチもついていて、ここにきて急速にこの本題に戻ってきたようである。ここで「テレビ番組」の恨み辛みが登場し、行きたくもない場所に連れて行かれたり、半裸にされたり・・・というやりたくもないことをやることに対する反論をさらりと言っていた。
そして、売れない脚本家と子どもの学芸会で主役の代演をやってしまった妻の話となる。アクションシーンが出てくると水野美紀の本領発揮ともいえよう。ブルース・リー(キル・ビル?)のコスチュームがよく似合う。プロペラ犬はここから登場してくることとなる。
最後のコントは、ゾンビに良い印象があったものを一気にかき消し、ゾンビが街中に襲ってきて、二人はビルの屋上に逃げ込むこととなる。絶体絶命の状況でプロペラ犬の登場となり、冒頭のコントの凍り付く結末に対して、熱い芝居による結末となるであった。
ここでこの舞台の全体を振り返ってみていくつか気になることがでてきた。
なぜ二人芝居だったのか?いや、二人芝居が悪いわけでもなく、河原雅彦も水野美紀も存分にお互いの持ち味を出し、シリアスな面もコミカルな面も堪能でき、芝居に対する熱い思いも存分に味わうことができた。
そして、どのコントも概ね「いいモノ」であったことは間違いない。演題の「マイルドにしぬ」とある通り、「死」というものがどれにもテーマになっているということも今更ながらに気がついた。その死には色々なテーマがあり、はさみ女の「予期せぬ死」。「ゾンビの話の「既に死んでいる」状態。役者を目指す女のどうしていいか分からない「死んだも同然」の状態と、日々の仕事に疲れて希望を失って「死んだも同然」な男。仕事に活路を見いだせぬ夫は自分を殺すことで脚本家として生きようとする。そんな中でプロペラ犬に希望を見いだそうとする。
シティボーイズの場合、早い段階でそのコント個々の関連性にはこだわることを放棄し、いいネタを沢山見せるように方向転換をしていた。一方、ナイロン100℃の「わが闇」の場合には(比較するのは唐突かつ無茶ではあるが、ラジカル・ガジベリビンバ・システムをルーツにもつ演劇と私の中ではこの3つを位置づけることにしたので強引な比較をご容赦いただきたい)、長いものがたりの中にスパイスのきいた短編(エピソード)をちりばめそれらの短編の結末は放棄するという凄技で大きな物語を完結させていた。では、このプロペラ犬のスタイルは、果たしてどちらを目指すのであろうか。
コントの積み重ねが一つの物語とならなくても観客は充分に堪能できるので、個々の作品のつながりを余り気にする必要はないのではなかろうか?それとも、舞台としての完成度は一つの物語の完結性であるとこだわるのなら、始めから物語としての構成を固めるべきなのではなかろうか。そうなると水野美紀の七変化のキャラクター作りを楽しむということがなくなるのがなんとも残念である。
では、今回の公演で、プロペラ犬はその目的を達成したのであろうか?
コントを「マイルドにしぬ」というつながりで串刺しにするという目論見にこだわることが個々のコントとコントのキャラクター作りの足かせとなっていたのではないかと不安感じた。個々の作品には充分な魅力と、演技者の力を出し切ったものとなっているのではないか?何よりこのユニットの旗揚げ公演を観衆は歓迎していることは間違いなかろう結論としては、1年間どんどんネタを温めてそのなかの秀逸なものだけを厳選してやればいいのではなかろうか?確かに、シティボーイズは舞台の前に、「シティボーイズ教室」なる小劇場の実験空間を設けて、料理教室までやってのけていたのであった。とウエブを見ると、すでにその実験空間は毎月やっているということであった。流石である。
もともと、このプロペラ犬というユニットは水野美紀と楠野一郎が「やりたいことをやる」ために旗揚げしたものなのだから、とやかく批評すること自体がナンセンスであり、また行くか、もう行かぬかの判断は来場者の好きなようにすればいいだけということなのであろうか。
次回どのような展開を仕掛けるのか興味深い。11月に第2回公演を決めているようである。季節折々の観劇の楽しみがまた一つ増えた。次回共演者には、小林高鹿・玉置孝匡あたりはどうであろうか?と勝手に想像している。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第77号、2008年1月16日発行。購読は登録ページから)
【筆者略歴】
大和田龍夫(おおわだ・たつお)
1964年5月東京生まれ。東京都立大学経済学部卒。現在は武蔵野美術大学・専修大学非常勤講師(メディア論)、金融業に従事。季刊InterCommunication元編集長。
【上演記録】
演劇ユニット プロペラ犬旗揚げ公演「マイルドにしぬ」
作:楠野一郎
演出:入江雅人
出演:河原雅彦、水野美紀
東京公演
・日程:11月27日(火)~12月2日(日)
・場所:赤坂RED/THEATER
大阪公演
・日程:12月7日(金)~9日(日)
・場所:大阪HEP HALL
追加公演『マイルドにしぬ』延長戦!
・日程:12月12日(水)~12月13日(木)
・場所:ラゾーナ川崎プラザソル
企画・製作
プロペラ犬(水野美紀×楠野一郎)
制作協力
キューブ
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◎3つの仕掛けは東京地方公演を福岡にいる気分にさせてくれた
大和田龍夫(大学講師)
2005年の再演となったこの芝居には、普通の芝居に慣れた者には意表をつく3つの仕掛けが待ち受けていたのである。
仕掛けその1
劇団員総登場「開演前の強制撮影大会」。開演前には「携帯電話の電源を切る」「カメラ撮影は禁止」が当然である会場は一転「カメラを出せ!!」ということとなるのである。西鉄バスをかぶったこの軍団は、3階席まで遠征をして「かぶりもの」に慣れてもらうための儀式が始まるのであった。もちろん、記念写真は後日多くの人がその演劇の感動を伝えるための「プロモーションツール」となることであろう。劇場の諸々のお約束を覆すこの「撮影大会」は始まる前に終わったかのような感覚を抱かせる意表をつくものであった。私はこの劇団、福岡を本拠地とする劇団を見るのが初めてということもあり、どんな劇団だと想像が膨らむ一方だが、この儀式を通して「いつも通りやるぞ」と宣言している。東京「地方公演」は2回目とのことで、2005年の「福岡地震」により公演中止となった本公演を「パルコ劇場」で行ったのが第1回目とのことである。
劇場の開演前の気配というのは劇場と劇団によってその特徴を持っているものであるが、開演前の緊張感をどのように高めるのか、また会場前の緊張感をどのように緩和するのか、このコントロールは観客と劇団の大きな問題なのではないか? 私はその緊張感を高めるための開演前の客席が「無音」状態で待つことに感動したこともあるのだが、これはこれでとても面白いものだと感じた。余談にはなるが、私は以前、シンポジウムの終了後の会場のいい雰囲気をなんとか開始前から醸し出すことができないか? ということを考えて、終了後の雑踏感を開演前にという試みをやったことがあるのだが、それは今振り返ってみると、mixi(のようなSNS)で事前にネタを盛り上げておいてオフ会を開催というモデルそのものであった。当然、異なる空間、時間は「盛り上げ」を促進するにはあまりに弱い前座であった。この「ギンギラ太陽’s」の前座は見事な仕掛けであると感心したのであった。本編が楽しみに高まる緊張を押さえきれない自分がいることに気がついた。
仕掛けその2、「かぶりもの」と「擬人法」
登場人物が人間ではない。猫しか出ない芝居もロングランするわけで、決して珍しいものでもないその擬人化した舞台には、驚きと感心が同居することとなった。登場物は飛行場・飛行機・・・・。役者は全て「かぶりもの」つき。別に喜劇・子ども劇をやるわけではないのである。このかぶりものにはいくつかの特徴があることがやがてわかってきた。1人何役も担っている役者は容易に役のなりかわりが可能になるのである。役者の顔が見える位置どりができた私には見つけることができた役者の早変わりはかぶりものによって可能となっているのである。この1人何役もの早変わりは舞台演出上の必然からではなく、劇団都合によるものであるようだった。だが、このかぶりものにより何ら違和感もなく自然に観賞できることとなり、このかぶりものが意外なまでにいい効果を醸し出しているのである。キャラクター設定においても、航空会社・空港などの特徴をかぶりものにより容易に具象的役作りの一助としているのも面白いところであった。テーマが「具象的問題」をとりあげていくものだけに本編を肉付けするための「説明」は短めにしてほしい、それをかぶりものはうまく手助けをしているようである。
仕掛けその3、「入念な取材に基づく史実に基づいた芝居」
シナリオは地元の史実を入念に調査し、その中のエピソードを一つ一つから丹念な物語を作り出している。藤木勇人が「琉球落語」と称して年に1回のペースで東京で琉球にまつわる物語を披露している舞台がある。落語という手法は全ての物語を表現してしまう特殊な話芸であるが、演技者に高度な話術を課すと同時に、観客に対しても高度な想像力を課すなかなかやっかいな舞台芸術である。
一方、この「かぶりもの」による物語とすることによって、舞台では表現が困難だった演出空間を無限に拡大し、時間という概念も忘れてしまう壮大なドラマが可能になったのである。この時空の拡大なしには大塚ムネトのシナリオは成立しえないのである。かぶりものと、大塚ムネトが取材をすることで構成した脚本は、ギンギラ太陽’sを唯一無二の劇団へとしているようであることは間違いない。社会問題、原発問題、差別問題、様々な問題に挑む劇団が日本中に存在しているが、時には演じ手側が見る側を選んでしまうような作りになることもある。一見、かぶりものがともすると幅広い層を呼び込むかのような作りであるかのようにも思える(逆に子ども劇、コントとバカにして見に来ない人もでるリスクも同時にあろう)。大塚ムネトはかぶりものを続けることに疑問を持っていた時期もあったとようだとプログラムで後藤ひろひとが証言している。10年続けることで持ち味となったのか、もともとこの手法をうまく獲得していたのか、他の作品も見てみたくなる不思議な魅力を持っている。
初演では雁ノ巣飛行場が役割を終え、スカイマークが独り立ちをしたところで終わったとのことだが、今回には続きがあった。この芝居のために作られたかのような史実が結末について大団円となっている。副題にあるように、YS-11は日本の空から消えてしまったが、消えたものの精神が次の世代に引き継がれていく。そのようなエピソードを続々と登場する「かぶりもの」の語りに、私を含め多くの観客が感動を覚えたであろう。
是非次回は地方公演ではなく福岡「本公演」で見てみたいものである。
(初出:週刊マガジン・ワンダーランド 第81号、2008年2月13日発行。購読は登録ページから)
【著者略歴】
大和田龍夫(おおわだ・たつお)
1964年5月東京生まれ。東京都立大学経済学部卒。現在は武蔵野美術大学・専修大学非常勤講師(メディア論)、金融業に従事。季刊InterCommunication元編集長。
【上演記録】
◎ギンギラ太陽’s「翼をくださいっ!さらばYS-11」
(Wing It! The Story of a Start-up Airline)
天王洲 銀河劇場(The Galaxy Theatre、2008年1月9日-14日)
作・演出:大塚ムネト
出演者:大塚ムネト、立石義江、杉山英美、上田裕子、中村卓二、古賀今日子、中島荘太、彰田新平、林雄大 吉田淳、石丸明裕、ほか
スタッフ :
[かぶりモノ造型]大塚ムネト
[舞台監督]松本幸一
[照明]荒巻久登(シーニック)
[音響]インテグラル・サウンド・デザイン
[宣伝イラスト]庄子智湖
[宣伝写真] 藤本 彦
[宣伝]清山こずえ
[制作]羽田野裕義、西山由紀子、永渕瑛美
[制作協力]伊藤達哉、三宅規仁、西川悦代(ゴーチ・ブラザーズ)
[プロデューサー]市毛るみ子(アミューズ)/堀英明/石川鉄也
全席指定 6,000円(消費税込み)
主催:アミューズ
後援: [後援]福岡県/福岡市
特別協力: (株)パルコ/(株)クリエイティブオフィスキュー
制作協力: ゴーチ・ブラザーズ
製作: ギンギラ太陽’s/アンミックスエンタテインメント/ピクニック
企画・製作: アミューズ /ピクニック
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初めまして。
私はギンギラの地元ファンです。今年12月、初めて東京公演に遠征することにしました。それで、ギンギラが地元以外でどんな風に受け入れられるのか気になって、いろんな劇評を検索してみました。
大和田さんを初めとする評論家のみなさんの劇評は、みななるほどと思わされるものでしたが、ギンギラの明らかな特徴なのに、地元以外の評論家の皆さんが何も言及していない要素があります。それは、ギンギラの「社会風刺精神」です。
西鉄バスのマナーの悪さ、需要を無視して政治力でつくられた佐賀空港や福岡市の人工島、収益重視で老舗を見捨てる西鉄グループや地場銀行など、ギンギラの芝居には、かなりアブない毒が仕込まれています。そんな地元ローカルの時事ネタ、社会批評精神こそ、ギンギラの最大の魅力です。
ただ、そんな地元の社会問題について、東京の評論家は全く無知であるがゆえに、ギンギラの果敢かつ強烈な風刺精神については、ほぼスルー状態です。大和田さんの文章を拝見しても、ギンギラの魅力の半分については触れていないような物足りなさを感じます。
もちろん、福岡や九州の事情を知らない方がギンギラを評価する際には、このような文章にならざるを得ないのでしょうけど…。そしてギンギラの魅力の半分しか分からない状態で高評価を下さるのはとても嬉しいのですけれど。
大塚ムネトさんが毎回「地元の人にしか分からない芝居を作り続ける」と意思表明をするのは、全くの真理です。今度は是非、福岡の本公演においでになり、福岡の観客が笑うツボを観察して下さい。その際は、芝居に仕込まれた毒を解読できる地元の方と一緒に観劇なさることをお勧めしますね。
◎器用な客演役者と不器用な主演・演出・脚本家による3つのコント
大和田龍夫
「グラフ」公演チラシ
着々と大きな劇場に移っていくmuro式。第1回は見ることができなかったが(チケットは買っていた)、第2回以降、欠かさず見に行くようにしている。今回で初回から4年が過ぎているとのことで、それなりの回をこなしているようだ。ムロツヨシなる役者の存在を知ったのは映画「サマータイムマシン・ブルース」だった。しばらくの間「ヨーロッパ企画」出身の役者だと勘違いしていた(それほど、当時は違和感がなかったというか、個性が薄かったというか)、次第にムロツヨシの存在は、濃いのか、薄いのかよくわからない謎というか、異様な役者という実感を持つようになっていた。
冒頭の「プロローグ」を除いて「ロース」「デッドメンズ・ハイ」「そ」3作品により構成された舞台であった。このパターンはmuro式の定番である。ちなみに、ムロツヨシは自ら「プロローグ」と「そ」の脚本を書いている。
「プロローグ」(脚本:ムロツヨシ)
「お寺」に基地を作ってしまった宇宙人たちと若いお坊さんの話。昨今流行の技法だと思うけど、舞台は「いつの間にか始まっている」という感じでムロツヨシがギラギラ光った宇宙人を思わせるコスチュームで登場し、客席の爆笑(苦笑)から始まった。とぼけた役に抜群の味を持つ本多力がお坊さんというのは本当に似合う。似合いすぎる。実家がお寺ということを後で知ったが、どうりで、細かい所作がなんとなくお坊さんらしい。このコントのためにここまで動作を勉強するとは凄いと感心してしまったけど、備え持ったものだったのかと逆の意味で感心した。どうやら地下に秘密基地を作って、しばらく「滞在する」ことが決定した状態でこのプロローグは終了。
「ロース」(脚本:ふじきみつ彦)
暗転状態で、とんかつを揚げる音が流れてくる。大竹まこと(声だけの出演)の受けた注文を確認する声が響き渡る。ここで舞台は明るくなり、とんかつ屋であろう風景が登場。永野と本多がテーブル席に座っているところから芝居は始まる。
ムロツヨシの(いい意味で)イヤらしいところが完全解放されたかのような秀作だった。人間関係の微妙な距離感・つきあいの感じについて3人の役者による舞台ということでとても巧く表現されている。「とんかつ屋」と思われるお店で、友人と思われる2人(本多力・永野宗典)に割り込んでくるムロツヨシ。ムロツヨシは、ロースカツとヒレカツを悩んだあげくにヒレカツを頼んでしまった。永野のロースカツを自分のヒレカツと「一切れ」とりかえっこして欲しいと突然、初対面の人に申し出てきたのだった。
ムロツヨシと永野・本多の2人の関係が微妙な距離間を作りながら、友達…知人…他人…、食べ物をシェアする関係がどこからなのか、人間はどのような関係に心を開き、安心し、緊張するのか、3人という人間関係が作り出す、連帯感と疎外感。笑い話のはずが、どんどん人間性の根本にふりかかる大問題に発展してしまった。
そもそも、とんかつ屋に来た本多・永野の関係は2人の認識にズレがあって、本多は永野を「友達」と思っているが、永野は本多のことをいつもスポーツジムで出会う「知人」で、一緒に飯を食いに行ってもいい程度の「知り合い」(後に「知達」とここでは命名される)。その永野のいう関係は友達と呼んでいいでしょうと本多は思っているが、永野はそんなに簡単に友達にはなれないし、ならないと、距離をおきたがる。
ムロツヨシの申し出「ロースとヒレを一切れ交換してほしい」を、永野は「初対面の人(友達でもない人)とは出来ない」と断り、本多の「チキンカツ」は交換の対象外で、本多は2人の仲介をしようとしている。初対面の人になんでもズケズケと入り込んでいく「図々しい」性格のムロツヨシ。本人は決してそんなデリカシーのない人間ではなく、迷ったあげくに声をかけた。かなりの覚悟をもって望んでいるという一方、永野は人見知りの性格で、実はこのとんかつ屋に来るのもかなり迷って、しかも、一緒に行く本多を友達というほどの心を許した人間ではないと口に出していた。本多はあまり気に留めずにいたが、実はそのズレは最後に「大人泣き」をさせてしまうことになる。本多は誰とでも仲良くなれる性格ということで、とんかつ一切れ交換を申し出るムロツヨシのアシスト役を買ってでたり、ムロツヨシと(その場限りか・終生なのかは不明だが)友人であるかのような軽妙な会話を楽しんだり、ノリツッコミを入れてみたり、永野をムロツヨシに変わって説得してみたり…。縦横無尽の活躍をしている。残念ながらその活躍は全て空振りで却って永野を殻に閉じ込めてしまうこととなった。
アフタートークでは、この「ロース」が評判になっているのが意外(もしくは心外)なようにムロツヨシは言っていた。自分の普段の姿はあんな人物ではないと。もっとナイーブな好青年であるかのような「そぶり」を見せていた。それを聞いて、私は、ひょっとしたら、ムロツヨシ本人は役者としての立ち位置をまだ見つけ出せていないのかもしれないと思った。もちろん、知ったからどうということもないし、アフタートークのサービスでそう言っているだけかもしれないのだが。
そのズレを誤解したままでいるうちは双方幸せな関係だったのに、そのズレを確認してしまったときに悲劇は生まれる。しまいには泣き出してしまうという凄まじい光景へと話は転がっていく。別にどうということでもない些末なことから大問題に発展していく。まさに、物語の醍醐味というものだった。そして、結末はなんとも気持ちいいものだった。
いずれにしても、本多・永野という8年来の役者仲間がいて成り立つ芝居なのかもしれないが、これを他の劇団の人(他の初競演の役者さん)とやったら、ムロはどんな演技ができるのか、見てみたいと思った。同じペースでどんどん突っ込んでいってくれるイヤらしさが爆発して、心地いいストレスを観客に与えてくれること間違いなしなのではないかと期待している。
「デッドメンズ・ハイ」(脚本:ヨーロッパ企画)
muro式.1で上演したものの再演。初演も、ムロツヨシ・本多力・永野宗典により上演された。
昨今、社会問題として話題になっているものと、奇しくも同じテーマで、いじめられていた生徒が逆襲して、いじめた生徒2人を殺したのだが、殺されてしまった2人(本多力・永野宗典)が成仏できずにいるところに、やはり殺されてしまったもう1人(ムロツヨシ)がやってきて、成仏できずに「ハイ」な状態になっている3人のやりとりが続き…。
まさに、3人のいいところを引き出した脚本だと思った。テーマはともすると暗い話になってしまうものだが、殺された側が殺した生徒を恨むでもなく、次の犯罪・事件の展開の予想をするやら、自らおかれている状況を「茶化して」遊んでいる様。奥深い問題意識はそのままに、なかなかブラックユーモア溢れるものでありながら軽いタッチで見られるように脚色されているところが「ヨーロッパ企画」脚本のなせる技なのであろう。
もともと、第5回公演は永野、本多も脚本を書いていた。それが2人に大きな負担になったと感じたムロは今回、2人には役者に専念してもらい、役者の魅力を発揮してもらうことになったと、アフタートークで説明していた。
同じ作品を再演する時には、役者は入れ替えてやってもらうと、2度目の人も、初めての人もそれなりに新鮮な気持ちになれるのではないか? 4年もたつとそれなりの年輪もあるので役者も違った演技ができるのかもしれない。muro式にはある意味定番となる、黄泉の国との対話ネタであり、その元祖であるから何度やってもいいのだろうけど、再演の時には是非メンバーを変えて(ムロツヨシにも)楽しんでいただきたい。
「そ」(脚本:ムロツヨシ)
若い僧侶(本多力)は夕食の準備を終えて、地下の基地にいる宇宙人(ムロツヨシ・永野宗典)に食事の声をかける。夕食はチキンカツ? キャベツのせん切りとご飯、味噌汁である。夕食の準備ができると、地下の基地にいる宇宙人を呼び、おもむろに夕食シーンとなる。
この夕食は全然楽しそうな雰囲気ではなく、かなり殺伐とした情景が続く。見る側は「毎度のことなのか」「何か事件があったのか」何なのか不思議で仕方がない。すると、夕食後の芋焼酎を呑み交わし、和解。という日常の風景が続いているという軽い解説めいた小芝居の中で、どうやら、何か事件があったことがわかってくる。
若い僧侶の悩み、そして、宇宙人の調査結果(侵略・友好・放置)はいかにというところを、ムロツヨシ、永野宗典が言いたい放題で本多力を困らせ、プロポーズに走らせるまでのショートコント。本多は、つきあっている彼女から「妊娠」したことを告げられ、プロポーズをしようかどうか、悩んでいて、その悩みが転じで宇宙人に対して「不機嫌」な対応を見せるようになっている。どうやら不機嫌な対応はいつものことらしく、晩飯後に晩酌しているうちに、心を開き、和解の乾杯をするということが定番になっていることも告げられる。
エンディングについては、当初脚本にはなかったようで、その脚本を変更したきかっけは永野宗典の「画力」があってこそだったようだ。芝居には結末を解釈の余地のないかたちで観客見せつけるいわゆる「くどい」エンディングと、結末を観客の解釈に委ねて終わるタイプの「軽い」もしくは「ゆるい」エンディングがあると思うが、ムロツヨシの舞台の場合観客の多くは「くどい」舞台であることを求めているのかと思う。当初の演出プランでは軽い終わり方を考えていたようだが、永野宗典の「画力」で付け加えられた演出はほのぼのとさせるいい感じの終わりで安心した。
舞台には特異な演出があった。舞台の大道具として「書き割り」は欠かせないものだと思うが、小劇場・欧米の現代劇などでは決してそのような「不自然」なものは使わない。しかし今回は特殊な書き割りを使っていた。描いたものはやがて消えていく。描いたものは水墨画のような(へたうま)絵があったり、グラフを描いたり、ムロ式らしい大道具にとても共感を持った。
プログラムも(うっかり)作った(1000円)ようだけど、せっかくならば「ヨーロッパ通信」(非公式冊子700円)を見習うなり、真似るなり(知っているのだから)もう少し工夫はしてほしかった(とはいえ、劇団としてやっていないから、制作とかそんなに充実した状態ではないだろうし、色々難しいだとはおもうけど価格・ページ数・内容については、次回に期待が募る)。いっそ、両面コピーで4pのプログラムを無料で付けるでも充分だし、などと思ってしまっては元も子もないけど、3人の出会いと、本広克行監督との関係が明らかになる対談ページはファンならずとも一読の価値はある。小劇場系俳優をテレビ・映画に起用しつづける本広監督の気持ちがなんとなく見えてきたり、役者の生き様も少し見えてきた感じがする。
第6回を見た感想としては、今までは、奇数回は「本多力・永野宗典」との舞台、偶数回は別の役者との共演となっていたことが、今回連続してしまったことに、観客はどういう感想を持ったのか気になった。客席は少なくとも私は笑わないようなところでも大きな笑いが出ていたムロツヨシファンなのか? もう少し演技に集中してもらいたいと思ったし、もっと厳しいところで経験を積んでもらってもっと大きな役者になってほしい(それだけのオーラを感じるから)のだが、今のまま続けていいのか? なんていう私の疑問に対して、舞台挨拶で次回は2013年夏「シアタートラム」で開催と発表していた。第1回から着実に座席数・上演回数を増やしている「劇団・ムロツヨシ」は着実に成長している。私などの考える数歩先を歩んでいるのには流石と感心した。劇団に所属することなくこうした「定期的舞台」を実現することは並々ならぬ苦労があるとは思うが、続けることだけでも大変だろうに、大きな舞台に発展していくその執念には敬服する。
長編の演劇に向かうのか、もっと多くの俳優を配しての「大きな舞台」を望むのか、所属事務所Ash&Dの大先輩「シティボーイズライブ」を目指すのか、ミュージカル俳優を目指すということはないと思うが(スパマロットではミュージカル俳優デビューも果たしていたが)、ムロツヨシの次なる舞台は楽しみである。来年夏まで待たせることなく客演でどんどん他の舞台に登場して「持てる技」を駆使して暴れて欲しい。
【筆者略歴】
大和田龍夫(おおわだ・たつお)
1964年東京生まれ。東京都立大学経済学部卒。現在は武蔵野美術大学・専修大学非常勤講師(メディア論)、ビッグデータの解析に従事。季刊InterCommunication元編集長。
【上演記録】
muro式.6 「グラフ」~その式を、グラフで表しなさい、~
【東京公演】ザ・スズナリ(2012年7月25日-7月31日)
【大阪公演】HEP HALL(2012年8月3日-5日)
脚本 ふじきみつ彦 ヨーロッパ企画 ムロツヨシ
演出 ムロツヨシ(http://murotsuyoshi.net/)
出演 本多力(ヨーロッパ企画) 永野宗典(ヨーロッパ企画) ムロツヨシ
料金 前売 3,500円 当日 3,800円[全席指定]
◎大きな芝居を小さな劇場で上演したら、小さな劇場で上演された芝居を大きな劇場で上演したらと妄想しながら
大和田龍夫
彩の国さいたま芸術劇場は開館して20年。新国立劇場中劇場、神奈川芸術劇場より長い歴史を持つ有数の大劇場だということに少し驚きをもって会場に向かった。実はこの演劇チケットを買ったのは「農業少女」で好演した多部未華子が脳裏から離れなかったからと、倉持裕脚本であることがその理由。蜷川演出、カズオ・イシグロ原作にはあまり惹かれてはいなかった(というよりはその事実をヒシヒシと感じたのは会場に着いてからだった)。
蜷川演劇の特徴(伝説)として「開演3分間で観客を演劇の中に取り込む演出」というのがあるが、それほど多くの蜷川演出を見ていない私はその伝説を語り継ぐ資格はないと思う。蜷川演劇は、シアターコクーン開館20周年記念超長編演劇「コースト・オブ・ユートピア」の一挙上演日の観劇以来、5年ぶりである。
冒頭、ラジコンヘリコプターが舞台上を巡回し、スローモーションで多くの少年・少女が舞台奥からあらわれ、サッカーボールが転がり、そして舞台奥に消えていく。大劇場ならではの舞台の大きさを使い切るシーンである。
物語は、時代は未来なのか、とある国なのか、全寮制の学校「ヘールシャム」出身の介護人と病人のやりとりから始まる。ヘールシャムというものが特別なところであり、それは何なのか? なぞが提示され、舞台はヘールシャムの学校時代に遡る。ヘールシャムは保護官と生徒の関係が特殊であることがわかる。やがて、どうやらその生徒たちはある年齢になるとここを出ていって、臓器を提供するという任務を全うすることを義務づけられていることも。将来の夢や希望は持たないように教育されているようであることが描かれていく。
そんな中で「男子はサッカーが好き」で学校の中では「創造的」活動を特に重要視していること。作品作りに対しての報酬として学校内で使えるチケットを集めて、それを「交換会」で自分が欲しい物と交換することができること。交換会には「マダム」と密かに呼ばれる謎の女性が来ること。マダムは保護官とも立場が違う人、そしてヘールシャムの生徒とマダムの間にはなにかわだかまりがあるようであること。実際、マダムは生徒を怖れていることを生徒は知ってしまう。保護官にもどうやら何か秘密があって、そのことについて保護官同士意見の対立と自己の中にも葛藤があるようで、さらに「もとむ」はクラスのみんなから「のけ者」扱いされていること。八尋・鈴はその「もとむ」に好意を抱いていることがわかってきた。ヘールシャムでのエピソードがいくつかでてきて第一幕が終了。
第二幕ではヘールシャムを出た八尋・もとむ・鈴の3人がヘールシャム以外の若者と「農園」での共同生活をしているシーンから始まる。ヘールシャム出身の人は他の出身者とは違うなにか「特別な人」と見られている。とはいえ、同世代の若者たちは優しい声をかけようと努めている。ここで2つの謎が明らかになってきた。臓器提供をするようになる前に「介護人」なる仕事につく必要があり、臓器を提供するのは「へールシャム」出身者だけではないこと。そして、ヘールシャム出身の人は「クローン人間である」ということだった。
へールシャムには「噂話」があり、それは「執行猶予」というものである。カップルと認定された場合には、特別な自由時間が与えられるというのである。その「執行猶予されるための認定条件」をヘールシャム出身の者だけは知っているという。その執行猶予を認定してもらう方法を教えることを交換条件にクローンの鈴のオリジナルの人間ではないか?という人に会いに出かけることとなる。実はそのオリジナルではないかと思われていた人は「明らかに別人(クローンのオリジナルではない)」であり、些細なことから八尋と鈴は仲違いをしてしまう。結果、帰宅時間まで別行動をすることになってしまう。八尋はここでヘールシャム時代になくした「お気に入りカセットテープ」を探すといい、もとむもそれを手伝うと申し出る。
第三幕では、大きな船が打ち上げられた海岸で、「2度の提供」をしながらも元気な「もとむ」、1度の提供をし、体調を崩している「鈴」、そしてその介護をする「八尋」3人が再会する。マダムの元に「カップル」で「猶予の申し出に行くこと」を、鈴はもとむに託す。八尋ともとむは「マダム」の家に訪ねる。そして、執行猶予の申し出をする。
そこで大きな誤解があったことがわかる。ヘールシャムでの「作品づくり」に多くの時間が割かれ、作品づくりがなにかとても大事なことであると生徒も認識していたその行為の理由は、ヘールシャムの生徒の人間性を審査するためではなくて、人間性を社会にアピールするための保護官のための「行為」であったこと、そのヘールシャムのクローン人間の人間性回復・待遇改善は一時的には良くなった(八尋たちがいた時代が一番理解された良き時代で)、現状、クローン人間への社会の評価は悪化してきていることを、元主任保護官から伝えられる。
そもそも特例などなく「作品作り」はそのヘールシャムのクローン人間が人間としての感性を持っていることをアピールするための活動に使われていた(だけ)という事実を突きつけられる。そして、八尋・もとむは、マダムからではなくヘールシャムの主任保護官であった冬子先生から「全ての人はプログラムに従って提供の任務につきます。特例などありません」ということばと共につきはなされてしまう。
八尋ともとむがカセットテープを探したときに二人の思いがどのように結びついたのかが明らかになり、物語は終わる。八尋の持っていたカセットテープはヘールシャムの中と外をつなぐ、ヘールシャム時代とその後をつなぐテープである。ささいなものに人生の大きな思いが籠もったテープであり、その大事なテープはヘールシャムで紛失したものを、外で同じテープを探して再び手に入れたものである。様々な思いがこのテープの逸話に込められていることが伝わってくる。ここでこのカセットテープが見つかる奇跡、その奇跡はどのような意味があるのかは舞台からは伝わらないが、小説では重要な意味を持っている。もとむの八尋に対する思いも明らかになるこのシーン、人の記憶は音により「鮮明に甦る」ことをもう少し加えてくれれば印象も変わったのではないのか。
エンディングでは冒頭のスローモーションでヘールシャムの学校の子どもたちが舞台奥から出てきて、再び舞台奥に消えていく。ラジコンヘリコプターが舞台上空を巡回する。
この芝居を見ながら思いだしたのは「断食」と「断色」(ともに、作:青木豪・演出:いのうえひでのり)だった。普段は大きい舞台の演出が多いいのうえひでのりが、座・高円寺(「断食」)、青山円形劇場(「断色」)の3人芝居を演出したという珍しい機会だった。題材もクローン人間の役割が終わりそのクローンをどのように「処分」するかという話だった。
そして、この大きな舞台が、翻訳劇を得意としている(と勝手に思っている)若手演出家「谷賢一」翻訳・演出・かつ小劇場で演じたらどんなだったのだろうか。この舞台で違和感を覚えたのは、私が日頃「本多劇場」が「大劇場」と思うような小劇場の芝居を多くみているからということだけではない何かがあった。というのも、意図的に原作と変えた2箇所があることがプログラムに倉持裕により説明されている。舞台が「ヘールシャム」という名前以外は日本に移されていること。個人(キャシー・H、舞台では八尋)の語りから、「八尋を客観的に描く」というスタンスの変更があったこと。大劇場用に脚本はかなり工夫(苦労)していることが原作を読むとわかるのである。
原作と見比べてという批評に意味は感じないが、原作を読んで小劇場向きの書かれ方をしていることを強く感じた。原作のまま小劇場で上演したのなら、今回の俳優陣には素晴らしい演技力があり、大道具に頼る演出は不要であった感はとても強い。しかし、そのまま大劇場で上演しても「空間」は埋められなかったのではないのかとも感じる。
さいたま芸術劇場大ホールの芝居に仕立てる蜷川幸雄の演出はそういう意味では随分と苦労したのではないか? いや、慣れているのかもしれない。大劇場をこれだけこなしている演出家なのだから、プロの仕事として当然のことをやっているだけなのかもしれない。あの大きな舞台でこの微妙な「こころのうつりかわる表情」を伝えるのはさぞや苦労した筈である。保護官が生徒に接する態度の移り変わり(微妙な表情の変化は私の席からはよく見えない)。役者間の対話のシーンに「効果音」「大道具」を多用することで台詞の意味を補完するかのような(悪くいえば役者の演技をぶちこわしにしかねない)ことで舞台を作り上げている。役者が上手い・下手ということを越えて、一粒の涙で表現できることを舞台演出も含めて観客に伝えるのはとても難しいことだと感じた(成功しているか、失敗しているかということではなく、その難しいことに挑戦する蜷川幸雄の挑戦心がすごいということを言いたいのである)。
小劇場に足を向ける観客は大劇場に来る観客と演劇の見方も・解釈の仕方も違う。同時に100人に伝わればいいものと1000人に伝えないといけないことでは自ずと演出手法・文法が異なることを見せつけられた舞台であった。
「劇団員」という慣れた役者との対話で作品を作り続ける方法ではなく、毎回主役は変わり、脇を固める俳優陣も変わる中で「蜷川作品」を維持しつづける(しかも多作である)この演出家としてのプロフェッショナルの仕事にひたすら感心させられることとなった。
イキウメの「太陽」(作:前川知大)再演が、蜷川演出によって2014年7月に予定されている。私にとっての「初イキウメ」だったこの作品には随分衝撃を受けたものだが、今思うと、いかにもイキウメらしい作品であり、「太陽」が佳作であることは間違いないが、大劇場で再演されるべき作品かどうかは見てみないと分からない。大劇場ならではの「有名俳優」が出ていることも期待を高めている(既に前売りは完売である)。
前川知大(イキウメ)作・演出の「関数ドミノ」公演(2014年5月25日-6月15日、シアタートラム)は、まさに最適な空間に最適なテーマで無駄のない2時間という圧巻の芝居だった。どうやら動物には「心地よいと感じる固有な空間」なるものがあって、そこにいると落ち着くというのは、ひょっとしたらこのようなことなのか? いや、谷賢一がグローブ座で演出した「ストレンジ・フルーツ」(2013年5月)は充分に空間を使い切っていた。前出「断食」は劇団☆新感線のいのうえひでのりが小劇場でもできるぞということを見せつけてくれた(といいつつ、舞台は小劇場の舞台空間にまで切り詰められていた)。「断色」でも青山円形劇場にあった演出を見せてくれた。イキウメ版「太陽」を見た人がどれだけ蜷川版「太陽」を見るのかわからないが、蜷川による演出の妙技が気になって仕方ないのである。ブルドッキングヘッドロックの三鷹市芸術文化センター星のホールでの公演「おい、キミ失格!」では、小劇場でここまでやるか?!という意表をつく演出に(笑いの)涙がとまらなかったが、そのような意外感、ハプニングを、舞台というハレの場に期待するのが観客なのではないのだろうか。
奇しくも、12年前にさいたま芸術劇場大ホールで見た作品はdumb type「Voyage」であった。この作品はエチュード形式による作品制作を重ね、発表に至ったものだった。作品が終わって「???」という気持ちが一杯になった。いいか悪いかは別にして、この舞台の特徴は、このホールのこれだけの客に「カタルシス」を与える結末を用意していないことに尽きる、と批評されていたことを思い出した。彼らはそのカタルシスのある結末演出を敢えて拒否した。観客も意表をつく結末に戸惑いを覚えていた。
今回の「わたしを離さないで」は大劇場の空間を埋めるに充分な導入と結末が用意されており、年に1回観劇をする人にも、カズオ・イシグロファンにも、毎週演劇を見る人にも同じ感動が伝わるように舞台が作られていた。大きな舞台での演劇は難しい。役者の力量のみならず、演出家・舞台装置・音響・観客の一体となった「鑑賞力」を備えないことには1000人に同じ「喜び」「悲しみ」を伝えることができない。座席の位置が悪い、前の人が邪魔、隣の人がウルサイ、役者が見えない、それらも含めてその日・その回の演者と観客が一体とならないことには舞台が成立しない。
ヒトがヒトの行動をみて喜怒哀楽を示す手法に劇場の大きさというものがこれほどの違いをもたらすということを改めて思い知らされた。2004年に新国立劇場中劇場で大きな芝居に感動し、2006年に倉持裕の脚本で小劇場に導かれ、40過ぎてから「演劇に魅された」私が、なぜ、小劇場に惹かれるのか、時々大劇場に足を運ぶのか、ようやくわかってきた。
舞台の大きさと芝居の(テーマの)大きさは独立事象であること、大劇場に向いた物語があること、度重なるカーテンコールに涙することがあることを、この10年間の劇場通いの記憶から呼び返してみた。4回に1回くらいは大劇場に足を運んでいることに気がついた。音楽で言うと交響曲と弦楽四重奏曲というような違いなのだろう。
(2014年5月11日13:00の回 観劇)
【筆者略歴】
大和田龍夫(おおわだ・たつお)
1964年東京生まれ。東京都立大学経済学部卒。現在は武蔵野美術大学・専修大学非常勤講師(メディア論)、ビッグデータの解析に従事。「季刊InterCommunication」元編集長。
・ワンダーランド寄稿一覧:http://www.wonderlands.jp/archives/category/a/owada-tatsuo/
【上演記録】
彩の国さいたま芸術劇場/ ホリプロ「わたしを離さないで」(彩の国さいたま芸術劇場開館20周年記念)
彩の国さいたま芸術劇場(2014年4月29日-5月15日、全20回)
上演時間:3時間45分(予定)(一幕 1時間30分/休憩15分/二幕 1時間/休憩10分/三幕 50分)
原作:カズオ・イシグロ(「NEVER LET ME GO」)
演出:蜷川幸雄
脚本:倉持 裕
出演:多部未華子、三浦涼介、木村文乃 / 山本道子 / 床嶋佳子 / 銀粉蝶
内田健司*、茂手木桜子*、長内映里香*、浅野 望*、堀 杏子*、半田 杏、呉 美和*、佐藤 蛍*、白石花子*、安川まり*、米重晃希、浦野真介*、竪山隼太*、堀 源起*、中西 晶*、坂辺一海*、白川 大*、砂原健佑*、阿部 輝*、銀 ゲンタ*、鈴木真之介*、高橋英希*
(*印は、さいたまネクスト・シアター)
主催:公益財団法人埼玉県芸術文化振興財団/ホリプロ
企画制作:ホリプロ
料金 S席9,000円 A席7.000円 B席5,000円 学生B席3,000円[全席指定]