野田秀樹

足跡姫

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「いい火加減だ」「許す」
そんな一言のために延々を芝居をするものがあった。
この足跡姫も相変わらずのグダグダな一連があったんだけど、
「最後のシーン」のためだけに。
「十八代目勘三郎」
このことばを言うがためだけの
歌舞伎の芝居
「the bee」を75分で演じた野田秀樹が
色々な事情で2時間を超える演劇もやるもんなんだなと、
シミジミ思う。

しかし、どうしても不思議なのが、
あの有名な「カヴァレリア・ルスティカーナ」の間奏曲

なんで、これを使ったのか。
確かに、叙情的でもあり、リアリズム文芸運動からの原作であり、これで一躍有名になったマスカーニ。
三角関係のもつれの泥沼劇。
単に耳に良い感じだから使っただけなのか、
何なのか。
興味は尽きない。


と、ここで毎日新聞は
江川紹子の記事を見つけた。
「やがて初代の猿若勘三郎の肉体も消える。だが消えても、消えたのに消えることなくずっと続いてみせる」「二代目、三代目・・・・・いやもっと、六代、七代、ううん十二、十三、十四、十五、十六、十七、十八・・・・・」「そこできっと、姉さんのひたむきさは生き返る」
2001年8月に初演された「研辰」で使われていたそうで。勘三郎襲名披露で2005年5月の再演でも「研辰」は上演したようだ・・・。やっぱりそんなことだったんだ。
「カヴァレリア・ルスティカーナ」は「田舎の騎士道」、なるほど、そんなこった。
(足跡姫ではなくて、こちらのサビの「使い回し」だったわけだ)

逆鱗

野田マップ

人魚って・・・と思っていたら、人間魚雷
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見事なんだけど、
これを書いているのは320
つまり2ヶ月近く経っているんだけど、
今一つ納得がいかない。

野田秀樹の世界観・脚本・舞台は見事だと思うのだけれど、
ここまでストレートでなくていいのでは?
などと思ったり、
単に松たか子・井上真央が好きな女優ではないからか?

回天記念館に今年こそは行きたいと思った2016年初観劇。

赤鬼

「赤鬼」
akaoni
2014年に観た「再演」の芝居No1になる可能性が高い(そもそも再演はあまり見ないけど)。
http://www.aoyama.org/topics/2014/akaoni.html

ウミガメのスープの話を思い出した。
で、その話が載っているページを見つけた。
http://umigame.s17.xrea.com/log00/umigame01.html

おのれナポレオン

おのれナポレオン
http://www.geigeki.jp/performance/theater018/
onorenaporeon
ついぞチケットを買うことができなかった。
三谷幸喜の芝居にはつくづく縁が無い。
・チケットが買えない
・あまりに高いところで鑑賞できずに帰った
・都合が合わず8枚もチケットを買った挙げ句、半分しか見えない席で見た
・仕事で行けなかった
・・・・
今回も「チケットを買えなかった」

ライブビューイングを買った。
5月8日、シアターコクーンに向かう途中でびっくりするニュースを見た。
「天海祐希降板」
で、
「宮沢りえ」代演
・・・・
結局、5月9日のライブビューイングは中止・5月10日から4公演を宮沢りえが代演をつとめた。
以前で記憶にある代演
「鋼鉄番長」(劇団☆新感線)の橋本じゅん・池田成志の降板。
確か、1週間くらい休演の後再演、三宅弘樹が代演となって大幅に演出プランが変更となった(台詞をナレーションに変更など)
「発情・ジュリアスシーザー」(柿食う客)初日に代演を中屋敷法仁がつとめたそうな。2日目から役をズラして続行。
シャッフルデーでその話を知ってびっくり。

2
日の稽古期間で舞台に立つのもすごいけど、すごいことがあったものだ。
関係者全員に敬意を表したい。
と同時に、演劇ってなんて怖いものなんだと感じた。
まさに「歯車」。歯が一つ欠けると舞台の幕は開かない。

8日のシアターコクーンでは、実はこのことが気になって仕方がなかった。
フジテレビの「めざましテレビ」で
11枚チケットを買った人の話
会場に来て知った人の話
などが出ていた。
楽日後の談話で、
三谷幸喜が「大幅に手を入れて2日で仕上がるものに改編したこと」1ヶ月稽古したものとは別とのコメント。
そう、でもこの4公演に立ち会えた人、天海祐希の公演を見られた人、それぞれ宝物だと思う。
フジテレビのこの件に関する報道姿勢には(ちょっと)感動した。軽部アナいい仕事したなと。

エッグ

NODA・MAP第17回公演「エッグ」
9月8日に見た

東京芸術劇場はながいこと改修をしていた。
何を改修したのかよくわからないけど、
入口にあるコンサートホールまでのエスカレーターは撤去され、端に移動していた。
あのエスカレーターは私は怖くて乗れなかったので、大英断に拍手したい。

なんか劇場全体が明るくなった気がするのと、公共の劇場とプライベートの劇場の大きな差である、まったりとする場所のあるなし、広い、狭いみたいな・・・東京芸術劇場は公共の劇場なので、その辺は以前から広めではあったのが、更に充実している感じがした。

芝居そのものはすごいことになっていて、
こんな「でかい」テーマを扱えるのは流石「野田秀樹」
そして、寺山修司の遺作原稿を発見して・・・という設定
オリンピックが遡って・・・。
731部隊チックな話になって、
旧財閥のイデオロギーを越えたレベルでの「生き残るという戦略」、
円谷を思わせる名前で遺書を出しながら、裏切る見事さ。
満州の悲劇をなんとも巧いこと表現するなとか、
劇場の改修をおちょくりながらも、そのプレッシャーと闘う様。
プログラムに書いてあった、創作ノートにあった「自分のとも誰のともわからない2行の台詞」
それが何なのか気になって仕方が無い。

仲村トヲル、深津絵里、大倉孝二は、野田秀樹以外の演出で見ていることもあって、演技に違和感を感じた。持ち味を十二分に出しているのかどうかとか、そういうことになるんだけど、なんか、違和感を感じた。その理由はプログラムを見ていてわかったのだけど、稽古で芝居を作り上げていく(のが野田秀樹のやりかたということらしく)役者にどう演じるかを「問う」のが野田秀樹のやり方らしい。役者とはどうあるべきかという議論をしても私は演劇業界の人間ではないので、意味ないけど、役者は脚本・演出の中で動く「コマ」として存在していて、そのコマをどう料理するかは「演出家」に委ねられるべきものなのかな。となんとなく感じている。
もちろん、舞台の幕が開くと、役者が主役になり、役者と舞台制作陣(大道具・小道具・照明・音響・舞台監督)の力量で「芝居」は完成されるわけだけど。料理でいうところの「下ごしらえ」と「調理」の関係に似ているのかもしれない。

で、この大きなテーマを芝居は描けるのか?
終わってしばらくは「こういう大きなものを描けるのは野田秀樹くらい」なんだろうと勝手に思って、それが演劇に向いていないのではないか?と思ったが、いやいや、「エンロン」「サブプライムローン」「証券投資」なんかをテーマにした演劇をイギリスでは上演して成功しているわけである。実際、翻訳された芝居を見てみると、見事なまでに完成した形になっている。

別に大きなテーマを描くのに
「テレビドラマ」のような長尺は要らない(スポンサーの関係もあって実は放映できないわけだし)
「映画」みたいに舞台を越えた表現ができることはうらやましいけど、映画は舞台より制作費がかかるわけだし。
舞台の扱うテーマとして野田秀樹のやっているようなテーマは「あり」なんだということを確信した。
要するに「世代」「関心」の問題なんだってことが分かった。