100年の秘密

ナイロン100℃ 38th session
休憩時間を入れて3時間25分の対策。
基本的にケラさんの作品は長時間になるわけだけど、やっぱりこれも長かった。

この芝居の驚いたところは3つ。
その1
世界初なんではないか?(いや、あるんだろうな、きっと)
舞台セットを工夫して「居間」と「前庭」の2つが1つの舞台上に同居している。
メリットは暗転なく演じることができること、2カ所の出来事を同事に表現できること。デメリットは客がぼんやりしているとどこの話か分からなくなる危険性があること。実際にはその話題展開がどこなのかは「照明」「立ち位置」「大道具」の工夫で戸惑うことはなく、しかも「メイドさんの記憶」をベースに物語りを進めるということになっているので、人間の記憶の実際はこんな感じなんだろうということを実感する。
実際自分も歳をとってきて、この記憶の混同感、つじつまのおかしさというのにはとても共感を持ってしまっている。

その2
ということで、その100年をどのように表現するのか、時計の針は進んだり、戻ったり、実際人間の記憶の多くは「時系列」が都合がいい。が、何かを思い出して語る場合に必ずしも時系列の通りだとは限らなくて、概ね時系列、ときどき前後する。この断片化した物語にはなんとも素晴らしい。

その3
多分、「100年の孤独」をフィーチャリングしたんだとは思うけど、観終わって思い出したのは「1900年」だった。いや、いい舞台ってのは一本そびえ立っているとは限らなくて、いくつもの物語が糸のように紡がれているうちの一本をそっとのぞき見するそんな感じになるのかもしれない。

「すごいな」
というのが観ているときに思った感想
「案外小さい話だな」
と思ったのが終わって呑み屋に座ったときの感想
「語るに難しい壮大な話だな」
というのがことばにしようとしたときの感想
で、一晩だって、まだよくわからないところがあります。
(全編観れば、わからなくていいところを除いて、理解できないことは何もない)
いえ、舞台セット、物語の時計が進んだり戻ったり、その辺にかくも見事な仕組みがあることに感動。そして、純愛(ってことでいいんでしょうね)、すれ違いの恋、いわゆる「病気」とでもいったらいいのか性癖、この辺が見事に表現されていて、それがどういうことなんだろう、100年の秘密は「悲劇」なのか、人生とはそういうものなのか、なんてことをフと我が事と照らし合わせてわからなくなってしまっています。死ぬ時に分かることなんだとは思うのですが。いや、そこでもわからないのか、すると永遠の謎になってしまうなぁとも。

あと、長塚圭史の芝居で、出演者が舞台袖(見えるところ)に椅子を置いて、出番でないときに、そこで演劇を観ているという不思議な演出があった。今回の「メイド」が物語を見守る様をみて、なんとなくその「必然性」なるものが見えてきた。

5月19日、中央線が工事のため国分寺から吉祥寺までドキドキしながら移動した。武蔵小金井ー東小金井が折り返し運転になっていて、想定しない駅で大量の乗客が乗降した。なるほど、ターミナルってのはそういう乗降のための「システム」がしっかりしているということなんだ。「慣れ」というものも含めて。
下北沢に異常に若者が多いのも気になった。何かお祭りでもあったのだろうか?