エッグ

NODA・MAP第17回公演「エッグ」
9月8日に見た

東京芸術劇場はながいこと改修をしていた。
何を改修したのかよくわからないけど、
入口にあるコンサートホールまでのエスカレーターは撤去され、端に移動していた。
あのエスカレーターは私は怖くて乗れなかったので、大英断に拍手したい。

なんか劇場全体が明るくなった気がするのと、公共の劇場とプライベートの劇場の大きな差である、まったりとする場所のあるなし、広い、狭いみたいな・・・東京芸術劇場は公共の劇場なので、その辺は以前から広めではあったのが、更に充実している感じがした。

芝居そのものはすごいことになっていて、
こんな「でかい」テーマを扱えるのは流石「野田秀樹」
そして、寺山修司の遺作原稿を発見して・・・という設定
オリンピックが遡って・・・。
731部隊チックな話になって、
旧財閥のイデオロギーを越えたレベルでの「生き残るという戦略」、
円谷を思わせる名前で遺書を出しながら、裏切る見事さ。
満州の悲劇をなんとも巧いこと表現するなとか、
劇場の改修をおちょくりながらも、そのプレッシャーと闘う様。
プログラムに書いてあった、創作ノートにあった「自分のとも誰のともわからない2行の台詞」
それが何なのか気になって仕方が無い。

仲村トヲル、深津絵里、大倉孝二は、野田秀樹以外の演出で見ていることもあって、演技に違和感を感じた。持ち味を十二分に出しているのかどうかとか、そういうことになるんだけど、なんか、違和感を感じた。その理由はプログラムを見ていてわかったのだけど、稽古で芝居を作り上げていく(のが野田秀樹のやりかたということらしく)役者にどう演じるかを「問う」のが野田秀樹のやり方らしい。役者とはどうあるべきかという議論をしても私は演劇業界の人間ではないので、意味ないけど、役者は脚本・演出の中で動く「コマ」として存在していて、そのコマをどう料理するかは「演出家」に委ねられるべきものなのかな。となんとなく感じている。
もちろん、舞台の幕が開くと、役者が主役になり、役者と舞台制作陣(大道具・小道具・照明・音響・舞台監督)の力量で「芝居」は完成されるわけだけど。料理でいうところの「下ごしらえ」と「調理」の関係に似ているのかもしれない。

で、この大きなテーマを芝居は描けるのか?
終わってしばらくは「こういう大きなものを描けるのは野田秀樹くらい」なんだろうと勝手に思って、それが演劇に向いていないのではないか?と思ったが、いやいや、「エンロン」「サブプライムローン」「証券投資」なんかをテーマにした演劇をイギリスでは上演して成功しているわけである。実際、翻訳された芝居を見てみると、見事なまでに完成した形になっている。

別に大きなテーマを描くのに
「テレビドラマ」のような長尺は要らない(スポンサーの関係もあって実は放映できないわけだし)
「映画」みたいに舞台を越えた表現ができることはうらやましいけど、映画は舞台より制作費がかかるわけだし。
舞台の扱うテーマとして野田秀樹のやっているようなテーマは「あり」なんだということを確信した。
要するに「世代」「関心」の問題なんだってことが分かった。