うちな~妄想見聞録Vol.24
実はこのネタは昔やった・・・。
と思っていたけど、随分「改編」されていた。
藤木勇人の琉球落語。
初めて聞いたのは「ボード事件」
日経新聞でみかけて観に行ったのだった。
今年は山之口獏生誕110年、没後50年ということで演目として決めていたようだ。
お題は3つ。
初めは漫談+ネコの話、元ネタはネコの皿
2つめはヨイトマケの唄ダイナマイトで漁をする・・・電線を川につけて漁をするなんてのも聞いたことがある。
ヨイトマケの唄は聴いただけでなけてくるのはなぜだろう。
最後は山之口獏と泥棒の話。
落語を藤木勇人はうっかり「書いた」と言ってしまったけど、
落語は「創作」としても「書いてはいけないのではないか?」
と思ったのと、落語としては聞き手の想像力に任せず話すぎるような気がして、
高い望を言うのは失礼なんだけど、面白いだけにもう少し(だけ)練っていただくと、
面白い話だけに、観客は3倍増すること間違いないと。
バイト
http://kasuguy.seesaa.net/
「桐島部活やめるってさ」でアカデミー脚本賞をとった、「スケベな話」の脚本を書いた、
ナイロン100℃の役者「喜安浩平」脚本、
柿食う客の役者、玉置玲央の原案・演出
河村紗也・荻野友里・岡田あがさ
これだけそろったら見ないわけにはいかない。
大満足
断色
http://www.dan-jiki.jp/
おにぎり旗揚げ公演とは似て非なる作品に仕上がっている。
麻生久美子にあそこまで卑猥なことばを連呼させるのはさぞかし気持ちいいだろうし、
田中哲司もうらやましい・・・。
前日みた「おぼんろ」と重なってなんともやるせない気分に。
向かいに「成海璃子」がいたような気がした。
ビョードロ朧の森で抱き寄せて
1200円のプログラムを作っている姿勢に感心。そんな暇あったら練習しろよという思いもあるけどこのプロ意識は好きだ。
プロたるもの、公演プログラムを作るのは「義務」と考えている。
ただ、まだプログラムを開いていないので、細かい事情その他は全く分かっていないので、その点はお許しいただき、以下の感想を。
もともと、私は自分の中に絶対的な価値観を持ち合わせていないことと、小津安二郎は言っていたけど、芸術なるものに絶対的な創造性なるものはない「引用」と「繰り返し」その「ズレ」なるものが新たなものを生んでいるに過ぎない。つまり、「進化=カオス=突然変異」というものがものごとの価値観を生み出していると思っている、この劇団というか、今回の公演も「比較する」ことでポジショニングをすることとする。
私が初めて見た「劇団☆新感線」は新国立劇場での「髑髏城の七人」だった。そこにあったものは「いのうえ歌舞伎」なる様式美と、新国立劇場という日本一の舞台装置があって圧倒的な迫力を堪能させてくれた。
そして、この「劇団おぼんろ第10回本公演★『ビョードロ~月色の森で抱きよせて~』」は、その中島かずきの脚本力、いのうえひでのりの演出力こそないけれど、彼らに負けないだけの「熱気」があることを感じた。その熱気とは、なるほど、「劇団鹿殺し」がそうだったんだろうなとおもいだした。「鹿殺し2008百千万」改訂版を見たときと同じくらいの驚きはあった。
会場と一体となって・・・というこだわりは「いい」と思いました。が、たまたま、通路をはさんだ向かいに「美少女」がいて、その子にキーを渡す当たりは流石と。(その子はとても気になる子で、役者がカーテンコールで挨拶しているときに拍手しないでお辞儀していましたのでその奇異さ加減たるや最高だったカナという名前だったのを記憶している)。
Piperなる劇団の「後藤ひろひと」がガマ王子VSザリガニ魔人みたいな作品は10年に1回もかけないとか、詫間孝行が苦しんだあげくに今のようになっているのを見ると、このまま行って大丈夫なんだろうか?とか心配にもなったりしたが、10回できたんだからあと10本くらいなんとかなるんでしょう。という気もする。
(鹿殺しの丸尾丸一郎はやっぱりその苦しみから離脱するの大変そうだし、、、ついに充電となるわけだし)。
一方、谷賢一、中屋敷法仁はそんな不調はあり得ないわけで、まだまだ「掘り起こす」ネタがこの世に沢山あって、コピーをしたつもりが「谷弁、中屋敷弁」となってとんでもない突然変異を重ねているワケで。
客層については「完全アウェイ感」満載で、主催者が同情して話しかけてきてくれたくらいなので(^_^)。
もっとも、今、日本でちょっとしたブームの「ビエンナーレ」にはあのような客層が日本各地に一定数いることを立証してくれています。現代美術と舞台の関係はそれこそ、ドビュッシーとかラベルの時代から延々とつづいているわけですが、あの感じは好きだ。。
と書きつつ、
昨日は青山円形劇場で見たのが「断色」。
再演だとおもっていたけど、全然別ものになっていた。
昔、安部公房の「空とぶ男」という短編が教科書に載っていて、それが文庫本の結末と違うのが「不思議」でならなかった。地獄の黙示録の最後の炎上シーンのあるなしくらいの奇異感で、似たことは「ストラビンスキーの火の鳥」でもフィナーレは初演ではなかったというのを思い出し、その「改訂」なるものの妙技に惹かれたりした。
今回の芝居は「初演」と「そろそろ始まる千秋楽」でどのような進化をとげたのか、実は「演劇」は「初演日」から「楽日」まで同じ芝居を続けることがお客に対しての「誠意」なのではないか?などとも思ったりして(生意気言っていますが)。
で、
一番意外だったのは、女優の豹変ぶり、憑依っぷり。