ポロック展

生誕100年ジャクソンポロック展

ポロックとの出会いは、そもそも、1995年に森脇裕之氏が「校庭を走り回ったらそれがそのまま絵になる、そんなこと出来たら面白いと思わない」という一言がきっかけで始まったアートプロジェクトだった。InterCommunicationCenter[ICC]開館を1997年に控え、いよいよオペラシティが完成しつつある頃だった。既にICCオープンを控えてICCnetなる(今でいうmixiのような)BBSをやってみたり、二の橋でギャラリーを開設してアーティストインレジデンスやってみたり、ニュースクールなる新しいタイプのワークショップをやってみたりその成果をそろそろ結実させるべき時だったりした。
で、身体そのものをペイントシステムにするとなると、いくつかの方法があることは分かっていた。1992年に「脱着するリアリティ」なるプレイベントを開催した後、藤幡正樹さんから「富士山にGPS背負って登ったら富士山の絵が描けるよね?で、それを時間で描画したら逆富士になると思うんだ・・・」という刺激的なことを伺って、富士山にGPS背負って登ったのは1992年の夏だった。GPSの代わりにやる方法は4つくらい思いついたけど、実装可能なものは・・・。などなど、当時の情報研木原民雄さんに相談してみると、所長(安田浩さん)・部長(石垣昭一郎さん)・グループリーダー(寺中勝美さん)に話が通じて「やってみれば」という暖かいお言葉が。実際にシステムを実装して、ペイントシステムを構築することとなった・・・。
当時ペイントシステムを作るとなると「安斎利洋」以外に思いつかなかった。SuperTableauというすごいペイントシステムを作り上げた天才であり、自らそのシステムでCGを書き続けている。ペイントシステムに変な話だけど「音」は必須だと思った。いわゆる「フィードバック感」を持つためには何かがないといけないだろう。それは「音」と感じ、藤井孝一に声をかけることとなった・・・。かくして「Moppet連画システム」は1996年ICCの開館7ヶ月前にICCにてお披露目をするという暴挙に出たのだった。
その作画をみて坂根厳夫さんが「ポロックみたいな絵だよね」と言っていた。実際、そうやって軌跡をペイントの線に仕立上げる。ポロックのアクションペインティング調にするしかないというのが安斎氏の答えだったと記憶している。それまで「ポロック」も「モンドリアン」も私の中では「現代美術」という過去の絵画の一つでしかなかった。それ以降も私にとっては、ポロックの「作品」「作風」に気になることこそあれ、その作家の人生がどういうものだかは、あまり興味があるわけでもなく、よくわかろうともしなかった。
今回の展覧会で知ったのはポロックの人生には4つの時代があるということだった。
「模倣」
「苦悩」
「開眼」
「崩壊」
苦悩とアルコールは一体みたいで、晩年(本人は晩年という意識もなかったろうに)は残念な状況だったようで。
この人生には惹かれるものがある(真似したいということではなくて、作家のありがちな人生という興味本位で)。