パロアルト

「反」夜行列車、そして海外の宿

飛行機に乗ると「夜行列車」は乗らなくなる(当然だ)
初めての飛行機は「羽田」→「千歳」(高校3年)
2度目の飛行機は「海外旅行」大学4年のときだった。
その後しばらく乗ることはない。
祖母の葬式にわからぬまま飛行機に乗って行ったのは無謀で、
住所も何も知らずにでかけた。20年ぶりのはなしだ。
奇跡的に着けた。

福岡空港で「朝鮮飴」を探したのは「92年秋」の話。
(朝鮮飴は「
銘菓」)

アルスエレクトロニカに1週間行ったのは95年。

1996年には
確か、このときは前後して「NYC」「モントリオール」への出張があった(ISEAに招待された)。
ケベックではフランス語英語両方使うのがすごい。
知人にフランス語で話しかけられて「おぉ、ごめん」って。別に英語でも一緒だけどといいたかったが語彙がなかった。

この年の夏休みには
NYCに1週間という豪華な旅をした。
行った先では現地法人にいた川本君が世話を焼いてくれた。
困ることはなかったのだけど、つきあってくれて助かった。

1997年
スタンフォード大学の前のパロアルトのホテルに3泊した。
サンフランシスコ・サンノゼに出かけた。

再びアルスに行ったのは
1998年か・・・
東京→リンツ→プラハ→パリ→ロンドン→東京
(旅なのか出張なのかわからない)

1998年
東京→カナダ→ロンドン→ローザンヌ→バーゼル→カールスルーエ→フランクフルト→オーフス→コペンハーゲン→パリ→東京
すごい罰ゲームのような旅だった(仕事)

2000年
ソウル→光州を初めてのアジア旅

2002年
関空→シアトル→ボストン→シアトル→関空

2004年
フィンランドに行ってしまった人に、仕事と理由を付けて会いに言った。
出逢ったのは「ヘルシンキ工科大学」の先生とその人と、前林明次氏のレジデンス
東京→スキーポール空港→ヘルシンキ→好きポール空港→ロッテルダム→スキポール空港→東京
丁度季刊InterCommunication 編集長解任というのもあり、下版した段階で出国してしまい、会社では大問題になった。
(そりゃ解任されることが決まっていたので、解任ですよ、こんな暴挙・・・って当然の結果だった)