折り返し地点

2016年5月に野島久雄氏の納骨式が執り行われた。
2012年11月に行われたタイムカプセル開封式(2003年に行われたICCでタイムカプセルを作るワークショップの再会の儀式)が行われて、4年が過ぎた。2020年に再度開封式をやることになっている。
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今年見た演劇に「遠野物語」を題材にした興味深い演劇があったこと、長塚圭史の10年前の演劇の再演があったことから、過去と未来について色々思い立つことがあったので、忘れてしまうから、書いておいて、後で思い出すことにする。

「遠野物語」(前川知大、世田谷パブリックシアター、2016年11月12日観劇)
あの不思議な伝承はなぜ記録されたのか、なぜ「史実」として語り継がれなかったのか。

「はたらくおとこ」(阿佐ヶ谷スパイダース20周年記念、本多劇場、2016年11月19日観劇)
10年前には「エネルギーに満ちた」演劇。それが時代に追い越されてしまうことがともするとある。

「話す側」「聞く側」
の文法がしっかりしている「落語」という形式に落とし込むことが、
一番いい「思い出」のパッケージング方法なのかな?と思ったのは、
「地獄八景亡者の戯れ」を桂雀々で見てからかもしれない。
あんなもん見せられた日には「冥土」に行くことも「楽しみ」になるってもので、死者を悲しんでばかりいないで、徐々に日常に戻っていく、葬儀の一式の儀式などがうまいこと「パッケージ化」されている気がしないでもない。ただ、いかんせん、一般人(自分ももちろんそちらである)は、人の話は聞かないし、話をすると無駄に長くなるし、支離滅裂になるもんだ。どうやってそれをまとめるのか。
いい方法の一つに「原稿用紙」なる書式があるのかもしれない。
与えられた時間は何分なのか。
そして、何枚で書くのか。
あ、そこで5枚以上の原稿を書くことは普通できたもんではないであろう。
1枚1分読むのに時間がかかって、
5枚で5分
10枚なら10分。
30枚でようやく30分。
すると、どれだけの分量の原稿を書けるようになればいいのか。
「序破急」なのか「起承転結」なのか「枕」と「サビ」なのか、いやいや、「枕」なんぞはそうそう用意できたもんではない。サビなんぞも「そうそう用意できたもんではない」。
勘違いして話の「さわり」だけでもいいから・・・なんて言うのは「さわり」は「聞かせどころ」であって、そこだけやってもうまくいくわけはない。
いや、
「うーん、いい火加減だ」(熱海殺人事件)
「許す」(はたらくおとこ)
「シカゴに海はない」(ラジオの時間)
そんな、一言で魅了してしまうすごいセリフがそういえば、もっとあったような気がする。
「よせやい、柄じゃねぇや」(髑髏城の七人)
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なるほど、落語の「オチ」なるものはそこがうまいことできているわけだ。
「はい、こうしておりますと、時々猫が二両で売れます」(猫の茶碗)
「蜜柑1個で千両、一房で100両、ここにある3房で3百両・・・」(千両蜜柑)
「いや、やめとこう、また夢になるといけねぇ」(芝浜)
「よく考えて見ると、わしに姉はおらなかった」(松曳き)
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シェイクスピアが400年を経て未だに愛される理由は、
言葉えらびなのか、物語の普遍性なのか、
なんだかよくわからない。
でも、確かに面白い。
中屋敷法仁の「女体シェイクスピア」みたいに端折ってもそれなりにわかるし、いい。
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「タイムカプセル開封式(2012年)」
なんともすごい会になってしまったなと、思いかえしている2016年11月(4年が過ぎようとしている)。
詳しいことは敢えて訊かなかったが、当時そんな思いを持っていたんだとか、誤解したまま開封式に臨んだとか、10者10様だった。2020年に私が開封式に立ち会えているのならば、2012年の自分を「軽く笑い飛ばせる」のか「何も語れない」のか、少し楽しみな気分になってきた。